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東洋一の吊り橋




平成元年 三好橋は それまでの吊り橋からアーチ橋へ 改修されて 再スタートを切った。
残されているケーブル 大正十五年製造 の 銘板 「小倉○○」

古い写真

三好橋開通式 当日 の 賑わい 昭和2年(1927年)(土木学会提供)


東洋一吊橋 三好橋 (土木学会提供)
(金364000円也)


★三好橋 昭和2年開通 吊り橋としてその当時 東洋一
昭和2年(1927年)開通の三好橋は243mの長さ(中央径間139m)の吊り橋で、出来た当時、吊り橋としては東洋一の規模を誇っていた。
こんな 四国の山奥に その当時に東洋一の 構造物が出来ること自体 大変な驚きである。

明石海峡大橋 瀬戸大橋など世界に誇れる長大橋が出来ている 今日にして思えば その当時の東洋一とは いかに 東洋と 西欧米諸国と 格差があったかという 事を如実に示していると思うのだが、こんな山間地にでも その当時東洋一のモノをつくるだけ 四国の山間地が 林業など 山間地なりの産業で栄え 地域が発展し 人々の動きが活発であったという事も想像される。

大正12年吊橋の河童橋が出来たが、その当時あった日本の古い吊り橋は下記サイトを参照
http://www.daido-it.ac.jp/~doboku/koto/stu/watanabe/rekisi.html

アメリカでは
「アメリカの経済の中心であるニューヨークのマンハッタンとブルックリンを結ぶブルックリン橋が完成したのは1883年。中央径間486mです。 中央径間500mクラスの橋を架けるのは当時の技術では不可能と見られていましたが、ナイアガラ橋で実績のあるジョン・ローブリングは、平行線ケーブルを使った、吊り橋方式を提案、建設されることになりました。
1931年、ニューヨークのハドソン川に架けられたジョージ・ワシントン橋は中央径間1067m。」
http://www.kajima.co.jp/gallery/const_museum/hashi/index.html建設博物誌より引用

この頃 アメリカでは 長大橋がどんどん出来ていて この10年後の1937年には サンフランシスコで ゴールデンゲート橋が開通するのである。
★明石海峡架橋計画
当時の東洋一の吊り橋と ゴールデンゲート橋をはじめとする米国の長大橋の数々を比べれば、まだまだ 大きな格差があった。

 そんな時代ではあるが、将来を 見わたすような プランを 描いていた人もあった。
昭和十五年(1940年) 後に神戸市長になる原口忠次郎氏(その当時は内務省 神戸出張所所長)は 明石海峡へ長大橋を架ける構想を発表されている。

昭和十二年 内務省土木局は開門海峡架橋計画を報告したが 結局トンネルになった程の時代であって、関門海峡に比べ 途方もなく大きい 明石海峡など その当時 はたして 実現するかどうか分からないほどの 大きなプロジェクトであり、大きな空想としか見られない程度に まだまだ、一般の関心は低かった。

実際 明石海峡に橋が架けられるのは 昭和15年の計画から 58年後のことである。

スエズ運河(1869年10月17日開通した。全長160km。)、パナマ運河(1914年に開通)など 世界的なビックプロジェクトが その当時すでに 完成供用されていたが 以後 今日まで壮大なプロジェクトが 人類の壮大な発想を いかに人々が実現してきたか、 そのプロジェクトがその後 どんな使われ方をしてきたか、 その歴史を辿れば 大変参考になることばかりである。

今日 道路公団の債務返済などで「45年後」とか 云う人は多くいるが、その当時  このような時代を駆け抜けた大事業を見据えて 58年後のことを 着実に考えられるたのは ただただ 驚くばかりである。

そして 戦前 戦後 大きな時代の うねりの中にあっても 時代を見据えて 大きな プロジェクトの可能性を 技術的にも 経済的にも それなりに 研究し、 構想を いかにしたら実現できるか 努力していた 先駆者がいたことには  驚き ただ敬服する次第である。

昭和38年 原口氏は 完成したばかりのチェサピーク湾の連絡橋や 金門橋をはじめ  数多くの欧米諸国の 長大橋を訪れて 翌年 海外視察報告書を書かれた。

「わたくしは、米国を訪れるたびに、金門橋を必ず見学することにしている。なぜならこの橋の技術的な興味とともに、サンフランシスコ湾の中心都市としてサンフランシスコ市が、生成発展していく様子に多大の関心を持っているからである。
(中略)
この湾には、さきにのべた、金門橋、サンフランシスコ・オークランド ベイ橋、リッチモンド・サンラファエル橋などが7橋もかかり、これに結びつく、8車線から12車線のハイウェイーが四通八達している。この様に整備された道路網があればこそ、サンフランシスコ市の対岸にはオークランド、サンノゼ、アラメダ、バークレー、リッチモンドなどの市が、目白押しに並んで、中心市のサンフランシスコをしのぐばかりの いんしん をみせている。

ひるがえって、大阪湾には、現在対岸を結ぶ橋は一つもかかっていない。そのうえ、周囲の道路にいたっては、およそ、近代的というには、あまりにも程遠いありさまである。阪神間の都市の連たんとめざましい繁栄にひきかえ、対岸の、淡路、四国のまったく対照的な状態の原因はまさしくこの点にあると思う。

日米の道路水準の開きを、単純に両国の経済力の差に帰することは、当を得ていないであろう。なぜなら、ワトキンスの言葉をかりれば「良い道路のない場合は、われわれが必要とする道路の建設費以上に、経費をかけている場合が多い」からである。

そして 「良い道路のない場合」ことは、単に一地域、一都市だけの繁栄にかかわる問題ではなく、それに結びつき、交流する地域や都市にとっても、同じ重要さをもっているからである。」

[長径間つり橋に関する海外視察報告書] 1964 原口忠次郎著

★喜寿を迎えた今日 かつての東洋一の吊り橋は
平成元年 三好橋は 吊り橋からアーチ橋へ 改造され、何の変哲もない ローカル橋と して残っている。

下流には 池田大橋(国道32号 192号)や 池田へそっ湖橋(高速道 徳島自動車道) 四国中央橋(国道32号)などの橋が架かり 三好橋は旧国道となってしまった今では ひっそりした 佇まいでとりたてて 話題にもない 単なる生活橋となってしまっている。

喜寿 七七年経てしまうと こんなにも変わるのかと 時代の変遷を 深く感じる次第である。

今更に 感慨にふけると 共に、その当時 東洋一を 作り出すだけの 注目される様々な要素が 多分 この山間地にあったのだろうし、橋を 架ける 地域の人々の 熱い思い そのエネルギーが 当時 東洋一の吊り橋を 造る 原動力になったに違いない。

開通当時の 賑わいをみると そんな想いをめぐらせることができる。

今日 こうした 先人の 様々な 苦労の痕 は 橋のたもとのモニュメントから読みとることが出来るが、今後また 77年を経た 瀬戸内ベイエリアのや山間地の将来など は さてどうなるのか 興味のあるところである。

三好橋 喜寿を迎えて
かつての東洋一の橋 近況

平成16年9月5日 第一版

http://www.lnt.org/

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